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カテゴリ:JASC( 5 )

JASC2005


夏の夜、チャリをブっこいで約一時間、
代々木のオリンピックセンターに到着。
オリセン激混みのこの時期にもかかわらず、
バッチリ大量に部屋を押さえているのは
そう、
「第57回日米学生会議」のご一行様なのだ!!!

汗だくになっていたのでハグはためらわれたけど、
やっぱり一年ぶりに会う笑顔を抱きしめずにはいられない。
変わらないビッグスマイル!
相変わらずすぐ泣く子・・・大好きな瞳がそこにある。



なんだかんだあったけれど、やっぱり去年の夏をJASCの中で過ごしてよかった。
あの特別な輪の中で、使い古したみたいな、
それでもやっぱり刹那的な青春喜怒哀楽をたくさん見られて本当に良かった。

熱い夏ももう終盤、
今年のJASCにはどんなドラマが生まれたのかな・・・

終戦六十年を迎えた今年、
沖縄と広島をサイト地に選んだJASCには
やっぱり仲良しこよし集団としての存在意義だけではなくて
これからの日本、アメリカ、そして世界に
伝えてゆかなければいけないメッセージを託したい。

会議終了まであと少し・・・
ECもデリも体調に気をつけて楽しんでね!!
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by akkohapp | 2005-08-14 23:43 | JASC

日米学生会議#4

「自分には常にアメリカ市民としての自覚があった。
しかし、アメリカは自分を信用してくれなかった。」

サンフランシスコのミルズ・カレッジで、
私たちは日系二世の老夫婦を囲んでお話を伺った。

日本語は一切使わなかった。
「最近はだいぶ耳が遠くなっちゃってね」と笑う奥さんを横目に
彼は同じ言葉を繰り返していた。

「自分には常にアメリカ市民としての自覚があった。
しかし、アメリカは自分を信用してくれなかった。」

1940年代に最高潮を迎えたカリフォルニアの日系人排斥運動の中で
強制収容所に入れられた。
4人兄弟全員が軍への入隊を志望し、対ヨーロッパ戦ではなく、
対日戦の中で暗号読解のプロフェッショナルとしてアメリカに尽くした。
しかし、アメリカが彼らを勇敢な兵士として称える機会はついに訪れず
敵の疑いをかけられると同時に、自由を奪われた。

家族との時間、築き上げてきた財産、自由、希望、若さ、国への信頼、
ささやかな幸せをつなぐための糸を、アメリカによって断ち切られた後も尚、
自分はアメリカ国民であると堂々と述べる強さを持つ。

彼らにとって、自分たちを「ガイジン」扱いする日本は、ルーツこそあれど
「外国」でしかない。
その一方で、裏切られ、全てを奪われても、
それらの過ちを認め、教育と仕事の機会を与え、
人生を開いてくれたアメリカが「母国」であることには、
少しの疑いもない。


個人にとって国家とはどんな存在なのか。

自由を与え、安全・安心を与え、住居と明日のための労働を与え
国を形成する過程に参加する権利を与える場所こそが
個人にとっての国家であると信じていた。
しかし、これらのものを与えられなくとも、その国を自分にとっての
母国として生きてゆくより道がない人々は、
歴史の中だけでなく、現代においても多くいることに気が付いた。

子供が、親を無条件に愛してしまうように
人は自分が生を授かり、生を送る場所を無条件に母国として愛せるのだろうか。

裏切られても、信じていたものを取り上げられても
その国の一部である以外にない人々。
そうであるより仕方がない人々。
日本にも、アメリカにもembraceされずに、宙に浮くようなアイデンティティで
それでも必死にアメリカという国のために戦をし、
星条旗に誓い、西部の土に足を踏ん張って生きてきた人たち。
彼らの味わった苦難と葛藤を考えた。
その穴はあまりに暗く、底は深く、覗き込んだら涙がこぼれた。

「この国には矛盾も、悲しい過去も、傷もたくさんある。
けれど、この国の国民であるというアイデンティティーにしがみつくより他に
どこにも行くところがない人がたくさんいる。
人工的だけど、アメリカはこうして統合しているんだ。」
耳が遠くても、しっかりとした深い声だった。

他にオプションがない人たち。
アフリカにルーツを持つAshleyの強い瞳が光る。

「どこから来たのか、自分が誰なのか分からない人々がこの国にはたくさんいる。
私は白人の人がどういう人生を生きているのか分からないし
戦中の日系人のアイデンティティーも理解できない。
でも、私たちがこうしてここにいることの意義は、
私たちが別々の道から来ていても、一つの道しるべを見つけて
一つになる道を探し続けることだと思う。」

カリフォルニアはGolden Stateと呼ばれる。
州を囲む山々が、日本人労働者によって全て畑にされ、
夏になるとそれらの畑が黄金色に変わったからなんだ、と
イタリアにルーツを持つホストファミリーのパパが教えてくれた。
阿蘇山10個分くらいの広大な土地を見上げながら
当時の日系人の根性を想った。
日本人特有の生真面目さで、ゼロから一つ一つ積み上げたのだろう。

そして、アメリカ人として、この地に根を張った彼らは
モザイクのようなアイデンティティーを靡かせながら
私の前に姿を現す。
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by akkohapp | 2005-03-20 19:21 | JASC

日米学生会議#3

穏やかに波を揺らすパールハーバーは、
思っていたよりもたくさんのノイズを心に鳴らす場所だった。
USS Arizona、1941年12月8日、1779人が命を落とした軍艦の上に
建てられた祈念館に立ち寄る。
犠牲者の多くが、私たちと同じくらいの若者であったという。

目を腫らして涙ぐんでいるアメリカ人の老夫婦の姿を見る。
時は過ぎ、人は老い、世界は刻々と様相を変え続けてゆく一方で
事実は確かにその場所で生き続け、そこを訪れる戦争を知らない若者にも
残酷に史実を伝える。

しかし、私に罪の意識は全くなかったし、責任感もなかった。
私がインド人や、イタリア人であったとしても、きっと同じように抱いたであろう気持ち:
人間としてユニバーサルに感じる失われた命への敬意、平和の尊さ、戦争の醜さ
そんなものを感じたように思う。
日本人である自覚は確かにある。

言語を含め、文化的にも、帰属意識的にも、法的にも、私は日本人だし、
例えこれから法の上で日本人でなくなったとしても、
私が日本という土壌を通じて培った感覚や、美意識、
常識やモラル観が根本から覆ることはないだろう。
何が私たちを「日本人」や「アメリカ人」と定義づける
明確な要素になるのかは分からない。
けれど、とにかく自分は、少なくとも公式な場で
自分は日本人であると定義づけるし、日本の国民であるという。

その一方で、日本のたどってきた歴史の一部は
自分にとっての一部ではないと感じる。
恐らく私だけではない、多くの日本人にとって
戦中に日本がアジアの国々に対して行った行為は
(それらを全て史実とするかしないかは今は取り上げないこととした上で)
「人間として」失われた命に敬意を払い、
その事実が起きたことを残念に思うことがあっても
それを「日本人として」謝罪することには抵抗があるのではないだろうか。

アフリカ系アメリカ人の子供たちが、
アメリカ史を学校で学びたがらないという理由は
その歴史は自分たちの歴史ではなく、自分たちを奴隷として扱った
白人男性によって作られた歴史だからだという。
けれど、私たち日本人が日本史を学ぶ際、
どれだけの人がそれらの歴史を「自分の」歴史だと捉えるだろう。
日本の女性が、日本史の多くは日本人男性によって作られてきており
自分たちは男尊女卑社会の中で権利を虐げられてきたから
歴史を学びたくない、などと訴えるのは聞いたことがないし
事実自分は、日本人の女性としてそのようなことは思わない。
かといって、日本史が自分を形成してきた要素だとして捉えたことはないし
世界史やアメリカ史を学ぶときと大きな意識の差異があったとは思えない。

国や民族への感情は、どこから湧いてくるものだろう。
自国を愛する気持ちと、他国に敵対する気持ちが
直結することが多々あることは知っている。
また、他国に敵対する気持ちが、
自国を愛する気持ちになりえる事も知っている。
人間は、醜い歴史を重ねてきたし、
今日も利権にとらわれた国際社会の中で生きてゆくしか術がないから、
自国に傷を負わせた国や、自国に不利な条件を与える国を憎む感情は
もちろん存在するのだろう。
けれど、国や民族への愛情は、そうした相対的な要素がないと、
湧いてこないものなのだろうか。
比較することなく、相対化したり、敵対化することなく
目の前にあるものを自然に愛で、
自分が帰属する場所を心地よいと思うことだけによって
人間は国や民族に愛情を感じることはできないのだろうか。

こんな風に思うのは、私が平和ボケした日本人だからなのだろうか。

かつて、ハワイの太陽の下に輝いていただろう船は
その一部を海面にニョッキリと曝す以外は
海の中にその体を横たえ、
色とりどりの鱗を纏った魚の住処となっていた。
60年以上が経つ現在も、
船体から漏れる油が海底からこんこんと湧き上がってくるのが見える。
玉虫色のその油は、ユラユラと波の上で形を変え続けていて
なんだか生きているみたいだと思った。

その上を、アメリカ人が、日本人が、肩を抱き合い
小さく言葉を交わしながら闊歩する。

2004年夏。

63年前に海の底に沈んだ若い命に、黙祷をささげた。
一人の人間として。

そして、少しだけ日本人として。
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by akkohapp | 2005-03-19 14:03 | JASC

日米学生会議 #2 

緑と茶色が混ざったAshleyの瞳は常に世界に開かれていて
たった一ヶ月の間だったけれど、
私はその瞳の中に喜びが溜まる瞬間を何度となく見た。
そして、そこに、涙が溜まり、溢れ伝うのを、二度見た。
最終日のお別れの日と、本会議がスタートして三日目。

午前中の分科会の休憩中に軽く話していて
キレイな目だよね、と彼女の瞳の色を褒めたところから話が始まったのだと思う。
ハワイ大学のキャンパスは、濃厚な緑に囲まれ、
南国特有のまろやかな日差しがブラインドの陰に見えた。

「褒めてくれてアリガト、でも私は自分の目はあまり好きじゃないんだ。」
なんで?と何の意向も持たずに無邪気に尋ねる日本人の新しい友達に
彼女はこう答えた。
「だって、この目にはあんまり良い思い出がないんだもん。」

「この目はね、かつて私の祖先が奴隷時代に白人の主人と交わったという証なんだよ。
その頃から白人の主人により近いところにいる奴隷は、他の奴隷よりも良い待遇にあった。
農場で綿花を栽培してる奴隷よりも、家の中で主人の身辺の手伝いをする奴隷の方が
格が上っていうヒエラルキーがあったってわけ。
でも、白人により近いところにいるっていうことは、血が交わることもあるというわけで、
私の祖先を含めた階級が上の奴隷は、そうした経緯を通じて身体的特徴も変化してきた。
肌の色が薄くなったり、目の色が変わったり、ね。
そうして、現代に至っては上流社会で生活するアフリカ系アメリカ人も増えたけど
それは未だに貧困層に属しているアフリカ系アメリカ人から見たら
気に食わないことなんだよね。
なんだよ、白人と仲良くしたからって良い思いしちゃって、って思われる。
学校で良い成績とったら、白人の教育方針にマジメに従って良い子ちゃんしてるって
言われるんだ。
私もこの目のせいで、何度もいじめられた。
ちょっと肌の色が薄いからって、同じ黒人の友達から嫌がらせを受けるんだよ。
だから・・・」

私は何を言ったらいいのか分からなかった。
アメリカで一年間生活したとはいえ、所詮私は「外国人」という繭にくるまれていて
直接的に自分の持つ肌の色に劣等感を感じたりする必要は全くなかった。
穏やかな水面の上を、滑るように過ごしただけだったのだ、
その水面下では日々ドロドロとした葛藤が繰り広げられているのに。

「日本人や他の人は、長い歴史を持ってる。
自分たちの後ろに、何があったかを見ることができる。
でも、私たちはできない。
何も持ってない。
どこから来たのか、自分たちが誰なのか、
本当はどの言葉を第一言語として話せるはずなのか、
本当の名前は何なのか、全てが分からない。」

そう言いながら、彼女は泣いてしまった。
透明で、繊細な涙だった。

「教育は何も教えない。自分たちのしたこと、自分たちが経験したことを
見ることは、胸を痛める作業だから。
黒人も、白人も、そんな痛みは胸にしまっておいて、誰にも見せない。
でも、私たちの痛みはいつもここにある・・・」

ごめん、人種問題について、こんなにemotionalになったことないんだけど・・・
って言いながら涙をこぼす彼女は美しかった。
美しいと思った。
弱い存在として扱われてきた人が、
強く、たくましく、自分の環境と事実を受け入れながらも
屈することはなく凛としている姿は、気高い。
一生懸命ばかりではなく、諦めたい時や、投げやりな時だってあるのかもしれない。
けれど、それでも、しっかりと己の生を歩む姿に、私は人間として生きている悲しさや
底のない凄さを見るような気がする。

人間は現代に至る歴史の中で様々なカテゴリーを人工的に作って
その中に集団を収めることで社会的構造を構築してきた。
身体的特徴という人間の持つ最も一義的な条件によって
その枠組みの中に放り込まれた人々が、未だにそこから脱却できずに
自分の持つ先天的なものに躊躇したり、妬んだりしていることは奇妙なものに思えるが
実際にそれは重く暗い現実として私たちの目の前に横たわっている。

けれど、その現実に決して甘んじることなく、
その上で、自分を括るものは「自分」という個性でしかないのだ、と
人種やその他もろもろの諸条件に依存することなく、
社会の中で強く生きてゆく人間を
私は魅力的だと思うし、100%でなくてもアメリカに惹かれる理由は
あの国がそういった人々をモリモリと産む土壌を備えているからだと思う。
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by akkohapp | 2005-03-10 12:43 | JASC

日米学生会議 #1

昨年の夏に参加した日米学生会議は、満州事変の勃発から
日米関係の悪化を危惧した学生らが「世界の平和は太平洋の平和にあり」と謳い
70年前に創設した日本で最も伝統のある学生会議だ。

当時の学生らの願いとはうらはらに、結局太平洋戦争は起こり、
一度は中止された会議も、終戦後再び再開されるようになった。
私が参加した第五十六回日米学生会議は、ハワイ、サンフランシスコ、ワシントンD.C.、
プリンストンの四都市において開催され、日米両国79名の学生と共に
一ヶ月間生活をしながら、議論を重ねた。

会議から学んだことは多い。
それは、アメリカ人の学生と向き合うことから得た日米間の相違といったものよりは
人種や国籍、文化や歴史を超えて全人類に共通の喜怒哀楽や、価値観といったもので
アメリカという鏡を通じて「日本人」の自分の位置づけを確認したのではなく
自分が「自分として」どんな人間であるのかを、ただただ79名という大集団の中に
身を置くことによって再考する機会を得たのだと考えている。
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by akkohapp | 2005-03-10 11:47 | JASC